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石川和則が語るDACグループの歴史(1962年~1976年)

白澤芳郎社長時代(1962年~1971年)

1962年10月1日、株式会社産案 城南支社長であった白澤芳郎が、4名の仲間を引き連れ、虎ノ門で京浜広告社として独立した時、DACグループの歴史はスタートしました。 産案時代には白澤芳郎は不動産広告を得意としておりましたが、新規事業として活動舞台を産経新聞より新興のスポーツ紙に移し、社長兼一営業マンとして求人案内欄の顧客開拓を決意したのです。
その読みは当たり、京浜広告社は短期間で軌道に乗って、1963年4月に社名を株式会社港通信社として法人登記。さらに1964年3月に東京デイリースポーツ社の専属第一号代理店として「デイリースポーツ」の名前をいただき、デイリースポーツ案内広告社を名乗るようになりました。
創業時に主力で取り扱っていた案内欄は、2011年現在往年の輝きを失っておりますが、弊社が創業したばかりの頃は、庶民に親しまれ人気の高い広告欄でした。取り扱う代理店側から見ると広告に対する知識をそれほど要せず、文字通り電話一本で始められたため、野心ある多くの人が独立を志し、案内広告代理店が竹の子のように出現した時代でもありました。デイリースポーツ案内広告社の前身である港通信社は、広告学校的に多くの独立者を輩出しました。

初代代表の白澤は、まだ企業の女性活用が叫ばれるずっと以前である1967年、時代に先駆けて銀座並木通りに女子部として銀座営業所開設。また多くの代理店をサブ代理店に出資・契約するなど、手広く事業を広げていった経営者でした。かつて白澤が得意としていた不動産広告も積極的に扱い業務の幅を拡げていきました。
しかしこうした拡張政策が1960年代後半より裏目に出始めました。
それどころか新聞案内広告がしだいに退潮し、新聞社と契約した特別料金による買切り段数を消化できなくなっていました。私石川がデイリースポーツ案内広告社に入社した1970年は、そのような厳しい状況にあった時代です。私は勤めていた某代理店の倒産により職を探していた頃、声を掛けていただいたのですが、すぐに責任者として班を率いて案内広告の伸張に取り組みました。しかし白澤社長はその成果を十分に見ることなく退陣。サブ代理店や不動産部門での不良債権が大きすぎたのでした。


久保二三夫社長時代(1972年~1976年)

1972年1月久保二三夫が二代目社長に就任しました。久保は一建設という不動産業を営んでおり、白澤との不動産広告取引を通して親密な関係を築くことで、デイリースポーツ案内広告社の大株主になっていました。
今振り返りますと、この機会に不動産広告の出稿を自粛するべきでありました。しかしながら二代目就任の年に発表された田中角栄による「日本列島改造論」は、「まだまだ不動産はこれから」と思わせるに十分でした。
ところが1973年10月、石油産油国を震源とする第四次中東戦争が勃発と同時に起こった第一次オイルショックでは、トイレットペーパーや洗剤がスーパーから消え便乗値上げが相次ぎ、テレビの深夜放送が休止になるなど国民はかって遭遇したことのない異常事態に陥いりました。日本全国の新聞社は新聞用紙の使用量を制限され減ページを迫られ、苦しんだ広告代理店は多かったはずです。もっともデイリースポーツ案内広告社の案内欄に関しては、ページ確保のためと四苦八苦したという記憶はありません。デイリースポーツ社は私たちに十分な紙面を用意してくれたという意味で、他代理店よりも恵まれた環境にありました。むしろデイリースポーツ案内広告社にとって痛手だったのは、オイルショックを契機に日本列島改造論が後退したことで膨らんだ不動産広告による不良債権でした。

そんな折、私、石川に社長を継がないかというお話をいただきました。業績が落ちていく中で「案内求人広告部門だけが順調に売上を伸ばしていた」ということでしたが、経営者の引き受け手が誰もいなかったというのが実状でした。


1976年27歳の石川
(次女・泉と)


1977年までの本社ビル(佐山ビル)

DACグループの歴史


1962年10月 白澤芳郎、京浜広告社を創業
1963年4月 株式会社港通信社設立
1964年3月 東京デイリースポーツ社の第一号専属代理店となり「デイリー」の冠をいただく。
1966年2月 株式会社東海通信社を合併を機に、株式会社デイリースポーツ案内広告社と正式に改名。
1967年4月 中央区銀座並木通りに銀座営業所開設。 同時に女性による営業部設置
1970年 石川和則、入社
1971年1月 久保二三郎、二代目取締役社長に就任

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