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アニマル石川の冒険記録(2) タクラマカン砂漠横断編-1

1995年10月7日~28日中国・タクラマカン砂漠を横断、
戦後民間人として初めて幻都「楼蘭」を訪ねる。

紀元前よりシルクロードの都市として栄え、3世紀には仏教文化を開花させた楼蘭でしたが、7世紀に三蔵法師がインドから唐へと帰国する途中で立ち寄った際「城郭あれど、人煙なし」と記しています。これ以後、楼蘭は歴史から全く消え去り、19世紀にスウェーデンの探検家、スウェン・ヘディンによって偶然発見されるまで、幻の王国として砂漠に埋もれることになりました。戦前各国の探検隊によって学術調査が進められていきますが、中国共産化に伴い学術調査も中断。石川和則がタクラマカン砂漠に旅立った1995年当時、タクラマカン砂漠は、中国政府より立ち入り禁止地域に指定され、一般人が入城できない状況でした。

その中で長年にわたって楼蘭入城の夢をあたためてきた男たちがいました。小倉真一氏が会長をつとめる「大地の会」でした。「大地の会」とは、毛沢東率いる中国共産軍の長征の道を辿って1200キロを踏破したり、黄河・長江の源流を探る探険を敢行するなど、中国文明とその地理に並々ならぬ情熱を持った同好の士が集う会でした。
その情熱は、当時中国の核実験場との噂も高かった禁断のタクラマカン砂漠にも向けられました。そしてついに1992年には会長の小倉氏は念願のタクラマカン砂漠入りを果たし楼蘭近くまで迫ります。しかしながら最後の最後で中国政府からの入城許可が下りず涙をのみました。楼蘭への夢はますます高まるばかりです。小倉氏はなんとかチャンスが巡ってこないかと機会をうかがっておりました。石川和則が縁あって小倉氏と知り合ったのは、その頃の話です。
一方、石川和則は、ハレアカラヒルクライムレース終了後の次なる挑戦として、世界秘境探険に興味を持っっていました。中国に関しては、当時の国家主席である江沢民氏との会合を果たし、中国でのビジネス進出(実際には実現しませんでした)に対して強い関心を抱いていた頃でした。 石川は小倉教授と知り合い、意気投合すると、「ただ自分たちで冒険するだけではなく、世に広く知らしめよう」と提案。デイリースポーツ東京進出40周年記念「読者参加による世界10大冒険の旅」という企画を練り上げ、自ら新聞社に持ち込みました。
「第一弾はタクラマカン砂漠横断、幻の都楼蘭を訪ねる・・・でいきましょう。もちろん私がデイリーの読者第一号として参加させていただきます」 この企画はすんなり通過しました。 「世界10大冒険の旅第一弾 タクラマカン砂漠横断し幻都楼蘭を訪ねる」と銘打たれ、関係団体からの協賛をいただき新聞見開きで告知しました。石川はタクラマカンの次はエベレスト、北極・・・と夢は広がっていきます。

読者代表参加者 団長 小倉真市
石川和則
土方薫
米坂幸子
(当時65歳)
(当時47歳)
(当時42歳)
(当時46歳)
新聞紙上発表 デイリースポーツ東日本版朝刊
平成7年10月6日発表

もっとも新聞社後援の「読者参加型」と銘を打った「世界10大冒険」は第一弾タクラマカン砂漠で打ち切られることになります。というのも冒険終了後、当時のデイリースポーツ社の社長がこう言われたとのことです。 「こんな危ないとこに行って、誰かが死んだら誰が責任とるん?」

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